この記事は、新歓ブログリレー20日目のものとして書かれました。
はじめに
初めまして、農学部2回の大石(Twitter: @0_1shi)です。
この記事では、2003年にLeafから発売されたエロゲー、「天使のいない12月」(通称:天いな)を紹介します。とても素晴らしい作品ですので、皆さんにプレイしてみたいと思っていただけるように、その魅力を多少なりとも伝えられたらと思います。
エロゲーの楽しみ方
エロゲーの楽しみ方のひとつに、作品の持つテーマを読み取るというものがあります(と僕は思っているのですが、このような楽しみ方をするのはどうやら少数派みたいです)。
という訳で、僕が天いなをプレイして、考えたことを書いてみます。これで作品の魅力が伝わると良いのですが。
天いなのテーマ解釈
あらすじ
まずは、この作品のあらすじをご覧ください。
願ったのは束の間の安らぎ
叶ったのは永遠という贖罪
人間関係は軽く薄く小さくがモットーであり、なにごとにもいい加減で投げ遣りな生活を送っている主人公。
特にやかましい妹がいるせいもあって、女は面倒だと思っている。
そんな主人公と違い、友人は女の子との恋愛に時間を費やし、肉体関係になることに至上の価値を求めているので、主人公に恋愛を勧めるのだが、まるで聞く耳を持たない。
ところが、ある女の子とのささいな言い争いから、なりゆきと興味本位でその場限りの関係を持ってしまう。
この作品の持つテーマを、あらすじの「贖罪」の解釈に(強引にですが)繋げようというのが本記事の試みです。
エロゲーにおける恋愛
突然ですが、普通の(王道の)純愛エロゲーでは、素朴に「愛」と「H」が表裏一体関係で結ばれます。それは、好きだからHができるし、Hができることが好きだということの証左に他なりません。すなわち、身体を繋げることが、そのまま心を繋げることになります。
そして、この表裏一体関係が疑問に付されることはまず無く、自明として扱われます。この関係はある意味理想論的な解釈なのですが、プレイヤーを楽しませるというゲームの都合上、そのように単純化して描かれているのです。
天いなにおける恋愛
ところが、この作品はこの表裏一体関係を解体し、精神的結合と肉体的結合に分解します。
主人公は、彼の持つ厭世主義によって精神的結合を断罪し、肉体的結合にのみ存在価値を認めます(とは言え、精神的なものの価値を否定するのみで、存在そのものは肯定しますが)。そして、自己を正当化するためにこれを自ら証明しようと、ヒロイン達と肉体関係を結んでいくのです。
心身二元論の陥穽
ただ、常識的に考えて、これらの精神的・肉体的結合は完全に平行なものではありません。肉体的結合は精神的結合を喚起するし、逆もまた然り。これらの結合を完全に峻別することは人間本性に抗うということであり、この峻別を維持するためには相当の精神的労力が必要不可欠です。
この点が各ヒロインとの関係に多大なる影響を与えるのですが、これについては時間がないので大人の事情でパスします。
願ったのは束の間の安らぎ 叶ったのは永遠という贖罪
さて、以上の議論をこの作品のあらすじに立ち返って考えると、主人公の罪は、恋愛における心身二元論の純粋な信奉者であったことでした。彼の贖罪は、自己を引き裂き犠牲にしてまで、心身二元論を証明し続けることでしか為され得ないのです。
おわりに
エロゲーはただエロいだけじゃないということを感じていただけたでしょうか。
この作品は、中古市場だと1000円前後で購入可能で、シナリオも比較的短くまとまっており、全キャラのTrueエンドを回収してもプレイ時間は10時間以内に収まります。お手軽に遊ぶことができるのにも関わらず、それなりに重い(大学生に刺さると思います)テーマ性を持った作品です。
エロゲーを初めてプレイしてみようと思う人にもお薦めできる良いゲームですので、興味を持った方は是非一度プレイしてみてください。
それは永遠でなく
真実でなく
ただ、そこにあるだけの想い・・・・・・。