京美同活動ノート

京大美少女ゲーム同好会のブログです。週1より早いペースでの更新が目標です

『はつゆきさくら』と『Summer Pockets』の感想

※この記事は『はつゆきさくら』と『Summer Pockets Reflection Blue』の内容に関わる核心的な情報を含みます

 

1

こんにちは。エチカ(@E_t_h_i_c_a)です。先日はつゆきさくらとサマポケをプレイし、どちらもいい作品だな~と思ったので、この記事を書きます。ご存知のとおり、この二作品にはシナリオライターの新島夕が脚本に関わっています。筆者は彼の作品をまだこの2本しかやっていません。ただのにわかです。これから彼の他の作品をプレイしていくにつれて解釈は変わっていくだろうし、多分その確率はかなり高いと思います。しかしそのように解釈が移り変わっていってしまうなら、暫定の解釈でも、チラシの裏レベルの文章であっても、いまここで考えていることはやがて失われてしまうわけで、そういう風にせっかく考えたことを忘れてしまうのはもったいないと思うので、とりあえずまとめてみました。

Summer Pockets』、とくにその中の「久島鴎」のルートと『はつゆきさくら』は、非常に似通った物語の展開、構造を内包していると言えると筆者は考えます。今回はそれを頑張って書いてみました。

 

2

結論から書いてしまえば、新島夕は「虚構」に支配される人間を書く作家である。彼の作品には、さまざまな現実でないもの=「虚構」が現れる。具体的な例を挙げるなら、童話『ひげ猫団の冒険』(『サマポケ』鴎ルート)や、ゴースト(『はつゆきさくら』)などだ。抽象化して言うならテキストや幽霊だ。いま挙げたようなこうしたガジェットは、作中において登場人物たちが生きる現実世界あるいは現世といったものとは反対の場所、つまり現実とは対比されるような場所に物語の中で位置づけられる。彼の作品において特異なのはここからだ。新島夕の作品においては、「虚構」は登場人物たちの前に突然現れ(現れたかのように見え)、あまつさえ現実世界に生きる登場人物たちを支配しようとしてくるのだ。

抽象的な話ばかりになってしまったので具体的な作品の流れを追ってみたい。まず『サマポケ』の「久島鴎」のルートを見てみよう。主人公の「鷹原羽依里」は、夏休みにやってきた離島「鳥白島」でヒロインの鴎と出会い、一緒に島に隠されているという海賊船を探す冒険に出ることになる。しかしその途中、羽依里は何度も白昼夢のようなものを見る。それは、「カモメ」という少女と「タカ」という少年を中心に、子供たちが海賊船を探すという内容だった。繰り返し同じ夢を見ていく中で、羽依里はこの白昼夢は自分が過去に体験したことで、海賊船は本当にあるのではないかと考えるようになる。
先ほどの論に当てはめてみよう。羽依里が見ている白昼夢は(少なくとも今のところは)全く出所が分からない、現実世界から遊離した「虚構」であり、この白昼夢を何度も見ることによって、羽依里はこの夢が本当のことであると思い込んだ───つまり、羽依里は「虚構」に支配されたと言い換えることができるだろう。
もう一つ例を見たい。『はつゆきさくら』の「小坂井綾」のルートである。今回注目するのはルートの前半、主人公の「河野初雪」が綾と出会うまでの部分である。初雪は母親代わりの少女「ラン」と二人で廃ホテルに二人で暮らしていたが、ある日突然やってきた「コノハサクヤ」と名乗る人物にランの魂を「狩られて」しまい、ランは物言わない人形同然になってしまう。途方に暮れる初雪にこれまた突然現れた「ゴースト」たちがささやく。初雪は人間とゴーストの中間のような存在であり、ゴーストたちの王「ゴーストチャイルド」になって復讐を遂げることで、ランの魂を取り戻せるのだと。めちゃくちゃな話である。最初は信じていなかった初雪も、保護者のような存在であったランを失い苦しい生活を強いられ続けるなかで、いつしかゴーストたちの話を受け入れ、自分は「ゴーストチャイルド」になるべき存在なのだと思い込むようになっていた。
これにやはり先ほどの論を当てはめるなら、何の前触れもなく提示された「初雪はゴーストチャイルドになるべき存在である」というあまりにも非現実的であり、現実あるいは正気などといったものとは対極にある話が「虚構」であり、その話を本当であると思い込むことで初雪はこの「虚構」に支配されたと考えられるだろう。ここでゴーストチャイルド云々の話にはゴーストたちという語り手が存在しているのではないかという反論が考えられるが、そもそもゴーストたち自体が非現実的な存在​──すなわち「虚構」である以上、彼らによって生み出されるゴーストチャイルドについての話も「虚構」だと言えるだろうと筆者は考える。初雪はコノハサクヤやゴーストなどといった「虚構」に満ちた不可解な出来事に突然直面させられ、外部から見れば荒唐無稽にも思えるその出来事を信じ、荒唐無稽な存在の言うとおりにすることを選ばされたのである。

ここで挙げた羽依里の白昼夢やゴーストには実際に作者がおり(当たり前だが「それは新島夕である。」といいたいのではない。作品世界の中にそのシナリオを生み出した非現実的でない普通の人間がいるという意味である。)、羽依里や初雪、あるいは読者にはそれが巧妙に隠されているがために、当人たちにとっては突然「虚構」が姿を現したようにみえるだけである。例えば羽依里の見ていた白昼夢の正体は彼が昔読んだ子供向けの小説『ひげ猫団の冒険』のストーリーであり、小説のある場面のシチュエーションと似た状況になったために白昼夢のような形で思い出した、という真相が物語後半で判明する。またゴーストチャイルド云々の話については初雪の父親で稀代の霊媒師であった「大野敦」が初雪を復讐の道具に仕立て上げるため、初雪に大量のゴーストを憑依させた上でそのゴーストたちに吹き込んだ妄言であることがグランドルートで判明する。ここで「『虚構』が登場人物たちを支配しているなどとたいそうなことを書かなくとも、ただ単に新島夕はこういう物語の構成をよくやるのである、という書き方で十分なのではないか」という意見が出てくることももちろんあるだろう。単に物語を面白くさせるために、つまり前半では物語の作者を隠しておき、後半でその名前を明かすことで読者に伏線回収のような快感をもたらすためだけに、そのような構成をとっているのだという主張である。確かに今書いている新島夕作品のこの特徴にそういう面があり、それが新島夕作品の魅力の一つであると言われれば否定できない。ただ、作者の手を離れた「虚構」が独り歩きした上で登場人物の前に前触れなく現れ、登場人物がそれに支配されてしまうという構図はストーリーが進むと単なる伏線以上の大きな意味を持ってくるようになる。

 

物語後半における「虚構」の役割を考える前に、ここまで書いてきた内容について、付け加えておきたいことがある。

新島夕の物語において、登場人物たちの前にこうした「虚構」が示されるのは常に彼らが精神的な危機にさらされている時だということだ。先ほどの例で考えてみよう。鴎のルート、その後半において、羽依里の見ていた白昼夢の正体が『ひげ猫団の冒険』という小説のストーリーであることは先に書いた。さらに物語が進む中で明かされるのは、その作者が鴎の母親であること、そして羽依里と冒険していた鴎は実は霊体のような存在であり、その体は遠い国で重い病気のために眠っているという事実だ。容体が悪化し意識が混濁している鴎は虚構と現実の区別が自分の中でつけられなくなり、小説の中の海賊船云々の話を本当だと思い込んでしまった。そしてその魂が体を抜け出して、海賊船を探しに遠い鳥白島までやってきてしまったのだ。そしてさらに、羽依里もまた、部活の大会で大きな失敗をしてしまい、傷心を癒やすためにこの島にやってきていたという事実が明かされる。辛くやりきれないような状況の中にあって鳥白島に来た二人。その島で提示された「島に眠る海賊船を探しに行く二人」という「虚構」をなぞって、その「虚構」の描いた筋書きに従って冒険をするという体験は、二人にとって救いのようなものであったに違いない。

また『はつゆき』の初雪に関しても同じことが言える。先述の通り、初雪はある日突然自分の住んでいた場所と家族のような存在を奪われ、たった一人で苦しい生活をせざるを得なかった。そのなかで彼に示された「自分はゴーストチャイルドであり、復讐を果たせばランの魂を取り戻せる」という物語を信じ込むことは、不条理な今の状況を全く何も説明されないまま生きていくよりずっと楽なことだろう。「『虚構』に支配される」などと書いたが、支配される側の羽依里や鴎、初雪のとってそれが苦痛であるかと言えば、全くそんなことはない、ということができる。

 

3

さて、ストーリーが進むことによって明らかになる「虚構」の演じる役割である。一言で言うなら、物語後半において「虚構」と現実との間に決定的な齟齬が生まれてしまい、登場人物たちが「虚構」を選ぶか、現実を選ぶか選択させられるのである。物語前半において登場人物たちに与えられた「虚構」は、精神的な危機に陥った彼らにとっては救いのような存在であり、それを信じ込んでいれば少なくとも信じる前よりは幸福に生きていられた。しかし、それはあくまでも現実とは大きくかけ離れた嘘の物語であり、それに支配されたままではどうしても現実とは食い違う場面が出てきてしまう。その時に、彼らがどのような選択をするのか。何を優先し、何を優先しないのか。そして、彼らが何を考え、何をするのか。新島夕の物語において最も重要なのは、「虚構」という物との付き合い方だと言えるだろう。

具体的に見ていきたい。久島鴎と羽依里は白昼夢を見つつ海賊船を探す冒険に出るが、目指した場所にあったのはただの古びた漁船であった。さらにその船を見た鴎は何かを思い出したかのような顔をし、そして忽然と姿を消してしまう。その「思い出したこと」は先述のとおり自分が遠い国で病気のため眠っていることだ。鴎からすれば「虚構」がなんであったか、自分が今置かれている現実とはなんであったか思い出し、ふたつの区別がつくようになった瞬間にほかならない。羽依里からすれば探していた目標である海賊船も、鴎も同時に消えてしまい、ここまで白昼夢を忠実になぞって進んでいた冒険が、突如未知の方向に進み始めた瞬間である。もはや彼らの冒険の筋書きとなる「虚構」は存在せず、この先の冒険をどのような形のものにしていくのか、それは羽依里と鴎の選択次第、という状況になってしまったのである。

『はつゆき』であれば、Prologue終了直後に進むことができる「玉樹桜」のルートで最もわかりやすい例を見出すことが出来る。桜と演劇を見に行った初雪は、そこで突然宮棟と名乗る人物に話しかけられる。ゴーストチャイルドについての話を信じ込み、復讐を遂げようとしている初雪の行動を、宮棟は何も知らない者がする愚かなことだと痛烈に批判する。実際なぜ復讐を行わなければならないのか、復讐をすることでなぜランの魂が帰ってくるのか、初雪は何も知らされていない。それでも苦しい生活を続ける初雪は、例え嘘であっても「自分はゴーストチャイルドである」という話を信じ続けていなければこの暮らしに耐えられない。しかし演劇を見に行ったことで宮棟に今の自分が何をしようとしているのか明らかにされてしまったために、これ以上ゴーストチャイルドの話を信じ続けることも不可能になってしまった。ここに大きな現実と「虚構」との齟齬が生じてしまっていると言えるだろう。

 

ここではこの後の展開​──つまり「虚構」と現実の間に齟齬が起こったあとの彼らの選択については触れない。それは作品ごと、あるいはルートごとに彼らは別々のものを選択し、別々の行動をとっているからだ。その種類はあまりに多く、ここで扱い切ることはできない。ただ、新島夕作品におけるそうしたいくつもの選択を眺めることで、ひとつ言えることがある。それは、現実をとるか「虚構」をとるか、登場人物達がその二者択一を迫られた時に、彼らが「虚構」を選びとることを新島夕は決して否定的に描いていないということだ。もちろん現実に正対し、登場人物達が「虚構」に縋らざるを得ないほど追い詰められている問題(鴎にとっての病気、羽依里にとっての部活での失敗、初雪にとっての自活しなければならない状況)を、なんとか乗り越えていこうと選択すること、それを新島夕は否定的に描いていない。ただ、その逆​の選択────登場人物達が辛い現実に立ち向かうことを諦め、たとえ現実からかけ離れたものであっても、現実と大きな齟齬を来してしまっているものであっても、「虚構」に支配され続けることを選ぶこと​────をした登場人物達に、新島夕は明らかなバッドエンドを用意しない。あくまでどこか救いのあるエンドを用意する。その点が、麻枝准のような他のライターと新島夕との大きな違いであるように思う。

 

『サマポケ』と『はつゆき』の相違点である登場人物達の選択について触れない代わりに、今まで書いてきたような、一見奇怪にも見える新島夕作品の話の構造、その意味について考えたい。

 

4

筆者は新島夕の作品を奇怪なものだとは考えない。むしろ、私たちの見ている世界を鋭く捉えた上で、私たちがどう行動すれば良いか、その一例を提示してくれる良い作品だと考える。

初雪や鴎、羽依里達は、突然差し出された奇怪な「虚構」を、精神や身体が危機的な状況に陥っているがために受け入れてしまう。その行動は、決してファンタジーの登場人物だけがする具体的なものではない。既にあまりにも多くの場所で言われていることではあるが、私達は複雑で混沌とした現実に耐えられず、わかりやすい「虚構」を求めようとしてしまう。例えば一生懸命努力しても報われるかもしれないし、報われないかもしれないが、報われると信じて努力し続けるしかないといった具合である。筆者は人生経験が本当に少ないので具体例を多く引くことは出来ないが、ともかく初雪たちの行動は私達の世界ではごくありふれた、普遍的な行動だと言える。先程も述べたように新島夕はそれを否定的に書くことをしない。そのような行動をとってしまった登場人物にも必ず救いを用意する。

「虚構」が現実に先立つ新島夕の作品は、現実の私たちの生活から遊離した全くのファンタジーなどではない。むしろ私たちの見ている世界を忠実に捉えており、現実に対する強力な批評性を持った作品だと言えるだろう。