京美同活動ノート

京大美少女ゲーム同好会のブログです。週1より早いペースでの更新が目標です

【9日目】瀬戸口廉也とアルビノのはなし

この記事はGWブログリレー9日目のものとして書かれました。他のGWブログはこちらからご覧ください。


kuvnlovers.hatenablog.com




(以下、ひたすらに『MUSICUS!』のネタバレが含まれます。未プレイの方はご遠慮いただきますよう……リレー投稿で特定の作品の考察記事書くヤツって本当に何なんでしょうね……)









 『MUSICUS!』において、主人公・対馬馨とメインヒロインのアルビノの少女・花井三日月の邂逅は、馨が三日月の自慰行為の現場を、三日月の兄・是清の部屋で目撃する、というなんともシュールなシチュエーションで果たされます。

中央の白髪の少女が花井三日月さん

 作中で天性のヴォーカルの才能を持つと称される物語のメインヒロインが、自慰中のスチルと共に、はじめてプレーヤーの目の前に現れる演出にはどんな意味があるでしょうか?


 

 しかしこの女性はなんて神秘的な顔をしているんだろう?
 ただ色が白いだけではなくて、顔だちも整っていて、抜け出してきたようだった。
 僕は思わず我を忘れかけたが、すぐに現実に引き戻される。
 あ、そうだった、僕は今この少女の自慰を目撃してしまったところなのだ。

『MUSICUS!』共通ルートより



 アルビノ――遺伝子疾患によってメラニンと呼ばれる色素が体内で正常に合成されず、肌や髪、体毛の色が白いことを指します――の人々が現実問題としてどのような偏見にさらされてきたのか僕はよく知りませんが、白い髪や白い肌は一般的に神的な、常世のものでないかのような印象を与えます。
 具体例を挙げることは控えますが、世の創作物において、白い髪や肌が神聖さや、それに類する物語上の特権を示唆する象徴的な表現として用いられることはままあります。
 ですから、白い髪や肌を持つアルビノである花井三日月というキャラクターが、自慰中のイラストによって、はじめてプレーヤーの前に姿を現す演出には、その神聖さの剥奪という意味を見出すことができます。

何も考えてませんでしたが、これ載せて大丈夫でしょうか……


 実際、このシーンの直後には冒頭に引用した馨のモノローグによって、三日月の容姿について言及した直後に、そのイメージを否定する、いわば見せ消しがなされます。
 『MUSICUS!』本編においてはこの見せ消し――彼女の容姿について言及しながら、直後に彼女の「ズレっぷり」を強調する――が執拗と言えるほどに繰り返されます。

ズレた発言を繰り返して
馨との初回練習では歌の入りが大きくズレる

 さらに三日月は物語開始時に高校に通っていないことが明かされますが、その直接的な理由は、髪の毛を黒く染めろと言われたから、という非常におあつらえ向きな事柄でしか説明されません。
 ここでプレーヤーの多くは、彼女が三日月がアルビノという特殊な事情を持ち合わせていることと勘案して、分かりやすいトラウマや、そこからの回復の物語、つまりアルビノであるのストレスから引きこもった少女が、音楽活動を通して自己実現を果たすという筋書きを想像しますが、これも物語の中盤の馨のモノローグの中で、やんわりと否定がなされます。

 

 三日月は行動も発言も少し常識とは外れているところがあるが、けしてものを考えないとか、理性が足りないというわけではない。むしろ、普通よりも考えすぎる方だ。記憶力だって悪くないし、理屈の理解も早い。
 自分のなかの理解できない衝動を抑えたり、理解するためにそのエネルギーを使ってしまっているように見える。

 自分と向かい合うことに精一杯で、外から刺激があるとそのバランスがすぐに崩れてコントロール出来なくなってしまう。だから彼女は引き籠らざるを得なかったんじゃないかと、僕は最近想像する。

『MUSICUS!』三日月ルートより


 さらに執拗と言えるほどに言及されてきた三日月の容姿でさえも安全圏に留まっていることが許されません。
 三日月ルートの終盤、彼女はファンの凶行によって強酸を浴びせられ、顔の半分に跡が残る大やけどを負います。




 この事件によって三日月は一時歌が歌えなくなるほどのトラウマを患い、そこからの回復が三日月ルートラストへの展開になるわけですが、ここまで見てきた通り、『MUSICUS!』作中において、花井三日月というキャラクターの神秘性を除外する態度は徹底しているということが言えるかと思います。

 なぜここまで長々と花井三日月というキャラクターの造形について見てきたかといえば、僕が思うに、この部分に『MUSICUS!』のシナリオを手掛けた瀬戸口廉也というシナリオライターの倫理観が最もよく表れていると感じるからです。

 『MUSICUS!』のシナリオにおいて、花井三日月がアルビノであることは彼女の弱さにはなりませんし、同時に彼女の容姿と彼女のパーソナリティを結びつける一切の想像力も徹底的に回避されます。
 彼女のトラウマは「アルビノであること」に起因するトラブルではなく、むしろ特徴的な自分の顔が直接的な暴力によって傷つけられることによって生まれます。
 マイノリティがありのままの自分を受け入れて成長する物語や、気高く生きる少数派の人間の姿が周囲の人々を感化していく物語、といったものは世の中に無数に存在します。
 そういった類の物語が暴力的だとか、当事者でなければ物語ることは許されないということではなく、ただそういった形式を選ばず、自覚的に否定しようと試みる部分に瀬戸口廉也という書き手の思想があるのではないか、という話です。

 それは言うなれば、安易な物語を拒否する態度です。

「俺がシド・ヴィシャスって大っ嫌いなの知ってるだろ」
「ああ」
「何でだろうなって考えて、最近わかったんだ」
「ん、なんだったんだ?」
「あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。それを賛美する連中も嫌いだな。悲しくなるように自分で手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな」
「どうしたんだ突然」
「連続性だとか、継続だとか、因果関係とか、死ぬほどどうでもいいってことだよ。瞬間が全てなんだ。本人はそんなに悪い人じゃないと思うけど、くだらないメロドラマはごめんだ。人生を馬鹿にしてやがる」
「ふむ、いきなりパンクロッカーみたいなこと言いだしたな」
「一応、何年もやってるからね。ズブズブだよ」
僕は笑って、それからまた真面目な顔にもどすと、
「何でもかんでも物語仕立てにしやがって。そんなにみんな、ストーリーが好きなのか。俺は断然否定するね。ドラマなんか、くだらないよ」

『キラ☆キラ』きらりBADより


 これはOVERDRIVE制作・瀬戸口廉也シナリオ、という『MUSICUS!』と全く同じ体制で2007年に発売された『キラ☆キラ』の一幕ですが、このシーンさえ「分かりやすい物語の一部になることを否定する物語」として回収されてしまうとはいえ、悲劇があり、そこからの回復があるという物語の形式から何とか逃れようとする意志が感じられます。

 あるいは『MUSICUS!』における三日月ルートのラスト。少し長いですが引用します。

「この間、馨さんがお兄ちゃんのユーレイを見たって言ってたじゃないですか。私にも見えないかなと思って。でも全然無理ですね。……よいしょっと」
 三日月はそう言って身体を起こす。僕はその目の前に座って、
「まぁ、あれは僕の幻覚だろうね。幽霊なんてものはいないから」
「また夢のない話を……」
「いや、夢だという話をしてるんだよ」
「そういう意味じゃないですよ。とにかく、幻覚だろうが夢だろうがユーレイだろうがもう一回見られたらなって思っただけです」
「ふーん」
「な、なんですか? じっと人の顔を見てっ!」
「いや、そんなこと言うの珍しいから、三日月も緊張してるんだなって思つ て」
「そりゃそうですよ。久しぶりですし、それにこの顔で人前に出るの初めてなんですもの……」
「そう言えば、本当にその跡を隠さなくていいの?」
「はい」
三日月は頷き、
「何でそんなこと訊くんですかねー。私が隠すわけないじゃないですか」
「ちょっと前まではあんなに……いや、そうだね。だってライブだもんな。三日月がステージに立つっていうのはそういうことだった」
僕は一人で納得して頷いてから、
「……じゃあ、そうだな、もし花井さんがあらわれたら、どんな話をするつもりだったの?」
「話って別に……」
三日月はちょっと目をそらして、
「一言お礼を言おうかなと思っただけです。音楽と引き合わせてくれてありがとうって……」
口をすぼめてききにくいモゴモゴとした声でそう話す。
一方僕は、その言葉を聞いた瞬間、胸がつまった。
「そうか」
それだけを口にするのが精一杯だった。

(中略)

「今日はいいライブにしよう」
「はい」
三日月は頷き、
「今日『も』いいライブにします」
と笑った。

『MUSICUS!』三日月ルートより


 ここでは特別なことは何一つ起きません。死んだ三日月の兄の幽霊は現れず、主人公は気の利いた一言も思い浮かばず、三日月は顔の傷もなにもかも受け入れてステージへ立ちます。
 『MUSICUS!』という物語の中で花井三日月というキャラクターがアルビノである必要性は、ここまで記した事々の他にも無数に挙げられます。
 そしてどんな物語にも必然性などなく、ただ作り手の作為のみが存在するように、彼女がアルビノである必然性は物語のどこからも引き出すことはできません。
 しかし作品全編を通して行われる長い「見せ消し」こそが、『MUSICUS!』が「くだらないメロドラマ」であることから必死に逃れさせようとしている、そしてこの「見せ消し」の精神が瀬戸口廉也作品を貫く倫理の一端なのではないか。

 そんなことを、最近『MUSICUS!』を再走しながらぼんやり考えた、というのがこの記事の要旨です。

おわりに

 本文よりも引用部分の方が長い適当な記事ですが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

 申し遅れましたが、僕はシナリオライター瀬戸口廉也のファンでして、今回の素描のような事々の他にも、たとえば『CARNIVAL』と『罪と罰』、『SWANSONG』とおそらく同作のオマージュ元であろうロバート・R・マキャモンの『スワン・ソング』の関係性や、唐辺葉介名義で書かれた小説、『PSYCHE』や『ドッペルゲンガーの恋人』、『つめたいオゾン』などを作家論として包括的に論じることはできないかとか、半自伝的な『電気サーカス』や氏がデビュー以前に運営していたブログの記述、それから氏の他の作品との関連性、などなどについて文章に著そうとしていつも失敗しています。こう見るとやっていることはほぼネットストーカーですね。

 それからよくネット上に公開されている瀬戸口廉也作品の考察記事を読みながら、自分でもこういった文章を書こう、と意気込んでいますが、さていつになることでしょうか。
 上手くいったらこの会の会誌に載せていただけるかもしれないですが、自分でもあまり期待はしていません。

 ごあいさつ遅れました。
 皆さんはじめまして、紗鷹と申します。この春から新人大学生兼駆け出しエロゲーマーをさせていただいています。
 またどこかでお会いする機会がありましたら、よろしくお願いいたします。


 いよいよ明日は企画の最終日です。どうぞ最後までお付き合いください。

 それでは。